媚びる…相手の歓心を買うために、なまめかしい態度をする。 (広辞苑)
ヴァニラ画廊(以下、V) 近藤さんの作品は、作品ごとにタッチやテイストが変わり、平面作品、立体作品あわせて、とても技術力がありますが、どこかで美術を習ったりしていたのでしょうか。
近藤智美(以下、K) 小学校の時から絵が上手い人って必ず一人クラスにいるじゃないですか。自分はそれですね。エロい絵を描くと周りが喜ぶので、それに快楽を覚えるタイプでした。
学校の中でもあの人は描ける人だと認識されていたはずです、エロでですが。
でもそれから軍隊みたいな高校に入って、グレちゃいました。私は勉強をまじめにやる方ではなかったので、意識的には絵を描く事なんて恥ずかしい事と思っていましたね。描かないけれども、文化祭になると気合入れて看板やTシャツを作っていたら、美術部に勝手に入れられてました。
お前は絵を描いていれば、バーターで教室では目をつぶるという状態ですね。当時は枕持って登校していましたから。
それでも絵を描いていれば一応OKだったのですが、他の美術部員とは部活の最中は話が合わなくて、デッサンの時には、皆これを面白いと感じているのかなとパン齧ったりしていました。笑
でも漫画を借りたりしていたので、仲が悪かったわけではないと思います。
当時険悪な関係の先生に美大に行けと言われていたのですが、絶対に言いなりにはならないって変な反骨精神で、行きませんでした。
当時は何だか学校が一種の宗教のようで気持ちが悪くて。高校という枠がもう本当にダメでした。
そして広島から東京に上京して、ネイルとメイクの専門学校に行っていましたが、ギャルばっかりのチャラチャラした学校でした。
上京前もマンバみたいなことやってたんですけど、渋谷でテッペン取らなきゃっていう気持ちになっちゃって。笑
ヒエラルキーのトップを取るにはマンバしかない!もうどんどん過剰にピークまで増殖して、そして私の世代で絶滅しましたね。
私自身がマンバをやったのが実質2年くらいなので、そんなに長くないです。
当時は大きいブームみたいのが2回あって、90年代のヤマンバ、私たちの2002年くらいからの第二次マンバがそれくらいですね。大きなブームが滅びる感じ、こうやって終焉を迎えていくんだという雰囲気みたいなものを肌で感じました。
V マンバ時代は絵を描いたりはしたのですか?
K しなかったです。絵を描いても役に立つことなんて何もないから、描けるなんて言うこともなかったし、プリクラの落書きぐらいですね。才能を発揮できるのは。笑
智美うまくね?みたいな笑
V そこからどのような経緯で作品を制作・発表しようという形になったのですか?
K その後マンバから足を洗って、インテリアデザインの専門学校で空間デザインを学んだあと、生活の為にキャバクラ勤めをしていました。その中で、お客さんの顔を3割増しでかっこよく描いて、それで指名を取るっていう事をやっていたんです。それで気に入られた人に、君は絵が描けるんだから、自分の会社に来ないかって、引き抜きされました。
その人は社長だったのですが、愛人が5人くらいいて、ITやってるって。笑
今思ってみれば胡散臭すぎるし、会社はとんでもないブラックだったんですけどね。でもその時は、お水から上がれるなら何でもいいと思ってついていったんです。
V 会社で絵を描く形ですか?描くものは会社が発注してという形ではなく、好きなように描いていいというものなのですか?
K いや…発注じゃなくて、社長の好みの写実的なものをこちらが汲んで描く感じです。夜桜とか弥勒菩薩とか、いわゆるそういった人が好みそうなものですね。その描いた絵をどうするんですか?って聞いたら、世の中に出すまで溜めるんだと言われました。
会社に所属するという形になって、契約書を交わしたら、3畳くらいの倉庫に閉じ込められて、描かないといけないっていう状態になって、最初は全然ありがたいと思っていたんですけど、
ただアトリエと言っていたのも、倉庫なんですよね。何か段ボールが敷いてあって、あれ、聞いてた話と違うな…って。笑
その狭い3畳の中でずっと絵を描いて。描いた絵に対して、その社長が気に入れば、月にいくらか支給するという感じでそれが1か月の収入です。
最初は良かったのですが、だんだんそれも支給額が下がってきて最後は月に5万くらい。それも私が段々気に食わなくなってきたみたいで、少しでも自己表現のような絵を描くと、それを机に投げつけられて、「こんなんじゃねーから」ってひたすら怒鳴られる。
あ、これはと思った時にはもう遅くて、契約書には逃げたら罰金何千万とか、個人で売買したら罰金いくらとか書かれていたんですね。
V それは相当危ない契約書ですね。
K ヤバいですよね。でも自分で絵を売ることもできないし、私の絵が売れると勝手に夢見てた社長も、絵の売り方とか全然わからないから、どうする事もできなかった。最初は金になると思われたのかもしれませんが…。そんな環境での製作が半年続きました。
基本的には下働きで、朝は社員の皆が来る前に会社の掃除、その後は社長が飲食を経営していたのでそこに働きに行って、終わったら三畳の倉庫でずっと絵を描いてっていうローテーションをずーっとやっていたから、だんだん精神状態がおかしくなっていきました。
V すごい労働環境です。
K 毎日働いて怒られて、絵を描けば人格を否定をされるような言葉を言われ続けて、これは精神崩壊するなって。逃げれば良かったのに、当時は契約書で頭がいっぱいになっていて、法的に逃げられないと思っていたんでしょうね。
それがある日、突然その会社が倒産したのです。
20人くらいの社員が呆然と立ち尽くしていて、私は受付に飾られていた自分の夜桜の絵と残っていた絵を持って逃げました。そこから持ち帰ってきた絵を、どこかで発表しなくてはと思い、銀座のギャラリー巡りと勉強が始まりました。これが一番の人生の転換期です。
V 酷い話ですが、逆にこれが無かったら絵を描いて発表するという気持ちにはならなかったということですか?
K 身体的にも精神的にも極限状態の中で、こんなにコテンパンにやられたのも初めての経験だったから、逆に自我が目覚めたのも初めてでした。死にそうなときに側に絵があるから。
思ったことは、ある程度、他人からの押さえつけが無いと、蓋開けたときに弾けられない。相当抑え込まれて、一度そこで死んだ状態があって、初めて自分というものが見えてきた気がしました。
この経験は黒歴史ですが、刑務所のような美大に入ったと考えれば…笑
卒業して制約なく一人で描けること、生きれることが嬉しかったです。
V その後は精力的に、制作、発表を続けていらっしゃる。
K 最初はグループ展に参加して、それからアートフェアに参加したり、2011年に個展を開催しました。その時に、山下裕二先生に会って、『美術の窓』の連載で紹介して下さいました。巡り合わせと運がすごく良かったです。
V 作品一つ一つがテーマ性が高いのですが、近年の作品について教えていただけますか
「のこそうヒトプラネスト」