'24/8/22 〜 9/1Gallery Lucifer presents
Immorality -背徳の世紀末芸術展-
フェリシアン・ロップス/フランツ・フォン・バイロス/オーブリー・ビアズリー

Immorality -背徳の世紀末芸術展- Gallery Lucifer presents

フェリシアン・ロップス
フランツ・フォン・バイロス
オーブリー・ビアズリー

2024.8.22(木)→9.1(日)

営業時間:平日12:00~19:00/土日祝12:00~17:00
展示室B(展示室A/愛実人形展も共にご覧いただけます)
入場料1,000円■当日券のみ販売

世紀末芸術とは、1890年代から20世紀初頭にかけて、フランスから始まり、ヨーロッパの国々に影響を及ぼした文化的および芸術的運動の包括的な概念です。
その世紀末芸術の中でも、特異な作家である耽美派の鬼才・ビアズリー、エロティシズムと幻想の挿絵王・バイロス、背徳と退廃の画家・ロップスの3名にフォーカスをあて、展覧会を開催いたします。

エッチングやアクアチント技法を用い、デッサンや風刺画のほか、死・悪魔・エロスのイメージを表現しボードレールの作品を含む詩の挿絵で一世を風靡したロップス(1833-1898)、蔵書票の制作で知られ、倒錯的なモチーフを可憐かつ退廃的な高い技術で描き「薔薇の画家」「挿絵王」と呼ばれるバイロス(1866-1924)、犀利で魔力ある白黒のペン画で耽美主義の鬼才とされ、ワイルド『サロメ』の挿絵で名を馳せた早世の画家ビアズリー(1872-1898)は、それぞれ19世紀末デカダンスを象徴する画家として現代でもなお観る者を魅了し続けています。

偉才たちの手による、背徳の魅惑に満ちたデカダンの世界をぜひご高覧ください。

フェリシアン・ロップス

1833年、ベルギー・ナミュール生まれ。
1863年、「ワロン地方の埋葬」制作。1864年にナミュールを訪れたシャルル・ボードレールと出会う。
1881年、ベルギーの出版社との共同制作で「愛の島」(シテール)的な13点の扉絵を制作。数年掛かりで挿絵を完成させたテオドール・アノン著『歓喜の詩』が出版される。ジョセファン・ペラダンが『1883年のサロン芸術論』のなかで、初めてロップス論を発表する。この頃から、近代的な生活を明確に描く絵画を捨てて、「悪魔的なるもの」に端を発した考察に浸り、象徴主義へと向かう。また、この時期ペラダンの紹介で、バルベー・ドールヴィーと会い、翌年同様の傾向を持つ「悪魔のような女たち」の挿絵を完成させる。
1898年、ドゥミ=リュンヌの邸宅にて65歳で亡くなる。

フランツ・フォン・バイロス

1866年、クロアチア・ザクレブ生まれ。
6歳の頃から絵を描き始め、ミュンヘンとウィーンの美術学校で絵の勉強をする。1896年、「ワルツ王」作曲家ヨハン・シュトラウス二世の娘と結婚するが、翌年に離婚。その後、ミュンヘンにてクニッル美術学校に入学。1904年に初の個展が開かれ成功する。以後、挿絵や蔵書票の注文が次々寄せられ、大型版本も3冊出版された。
1911年、自身の画集「化粧台物語」が猥褻罪でミュンヘン警察から告訴されるが、公判を避け、再びウィーンへ戻る。1913年、二度目の結婚後、1921年、「神曲」をテーマに60枚の水彩画を発表すると、ドイツやイタリアでの展覧会でも絶賛を博し「挿絵王」の称号を捧げられた。
1924年、脳溢血の為他界。

オーブリー・ビアズリー

1872年、イングランド南部ブライトン生まれ。
1890年、画家エドワード・バーン=ジョーンズの勧めでウェストミンスター美術学校の夜間クラスに出席、これが生涯唯一の正式な絵の勉強となった。1891年、バーン=ジョーンズの画室を訪問し作品を見せたところ才能を絶賛され、画家になることを勧められる。
1893年、オスカー・ワイルド作『サロメ』の挿絵を描く。ワイルドの醜聞の巻き添えで社会から指弾され、パリに渡る。パリから帰国後に、出版業者レナード・スミザーズとアーサー・シモンズの招きで『サヴォイ』誌創刊に参加、同誌の美術編集者となる。 1898年、結核の進行により寝たきりとなり、ベン・ジョンソン作『ヴォルポーネ』のために描いた作品(未完)が絶筆となった。結核のためマントンにて死去。